昭和40年9月16日 朝の御理解
昨日、ある方と、ある方のお取次ぎをさせて頂いた時の、お話でございますけれど、その人の、内容というものが、立派であるか、立派でないかと、ということで、こちらに響いてくる響きが大変変わってくると。例えば、字をひとつ見せて頂いても、別に良くに書いてあるわけではないけれども、有難いといったような感じの字と、綺麗に書いてあるけれども、何か、いらいらするようなものを、感じるような字が、字にでもありますねといったようなことを、申しておりました。本当にあの、良い内容を持っている人達の、一言、二言と、お話でも、あのね、あのねと言うてからこう、話しかけられる時に、ほんとにこう、耳を傾けたいような人があると。けどもそのう、内容の良くないというか、んー、我情我欲のための人の、あのねといわれたら、またこの人が、なにを言い出すじゃろうかと思うようなことがあろうがと、言ったような話をさせて頂いたんですけれども、確かに、そうですね。別に、その人が話されることを、特別のことでもないのだけれど、あのね、とこう話しかけられると、おー、ほんとにこう、なんか楽しみを持ってですね、なんねと、こういいたいような、人。あのね、といわれても、知らんふりしようごたる、あのねが、あるというわけです。結局その人の内容によることだと、例えば、あのね、と言うてから呼びかけられる時にですね、ほんとにあの、我情我欲の人のとは、その人の中心にしてからのお話ですから、聞きたくないというようなものがあるんです。「ね」。あとで、どげなことでも言いだしよるか分らん。あの人が金光様の先生かなんかで、ほんなら、またお供えのこと言わっしゃるとじゃろというような気がするんです。「ね」。けれどもその、それはお供えのことでありましても、あのね、と、こういわれることが、その先生の内容がです。自分自身のためではない、我情我欲のためではない、あのね、の話ならね。それから先を追及してでも聞きたい気がする。問題は、内容の問題だと思うのです。結局、自分を中心にしての思い。本当に、その人が助からなければならない、まあ、そんなに、助からなければならないといったようではなくてもですね、そういうその、一つの、豊かな、和らいだ、または、神様の願いを願いとしてといったような内容を、持っておる人の話は、話にそれだけ、人を引き付ける様な物があるんですね。
昨夜、総代さん方、それから、企画委員の方達の、会合がございました。今日開かれます、総会やら、祝賀会やらの、事についての検討であり、練りあいでございましたが、一時過ぎまで熱心に、そのことがございました。皆さん帰られましてから、もう、一時半も過ぎておったでしょうかしら、私、昨日あの、非常に、足が痛む。いつもとは違ったこの、痛みが致しますもんですから、休みがけ、二番目の娘の愛子が、「もませて頂きましょうか」と、「ほんならもんでくれんの」明日もゆっくり休んだっちゃ良かけん、揉んでくれと言うてから、まあ、揉ませておりましたから、二時過ぎました。その、揉ませて頂いておるときにです、ま、色々、愛子が話しますんですね。「もう、こげん遅うから」というよな物じゃなくてから、「お父さんが痛いというなら、一晩中でも、揉ませて頂きたい」といったような気がする。すると、自ずと眠さといったようなものを感じないと、言うような意味のことを話すんですね。また、私は、愛子だから、ほんなら、一時でも揉んでもらおうかという気になるけれど、誰彼だったら、揉んでくれとは、おそらくいわんだろう。という内容だったと言うことですね。そしてその、私は、とにかく神様のご悲願が、ご成就のことのために、この世に生まれてきたようなものだから、いつも、そんなことを考えとるというわけなんです。この日とは、丁度あの、13日生まれなんです。その、7月13日生れです。しかも、いろんな、因縁というか、いわれというものがあるんです。私の弟が生まれましたのも、やっぱり、あのう、7月の13日だったんです。それで、丁度、戦死の公報があったその年でございましたから、両親達が、もう、ほんとにあの、私の弟を大作と言いよりましたが、あ、大作のこれは、生まれ変わりと、男と女子とこそ違え、これは、大作の生まれ変わりに違いが無いと言うてから、まあ、喜びましたんですけれど、ほんに、そう話を聞かせてもらいよりましたら、あの、ほんに弟の戦死したということも、大きな意味合いにおいて、神様の願いが、成就のことのための、戦死であったなあということを思うんです。「ね」。それを夕べも、話したんですけれども、もしあの、弟の戦死がなかったら、私の心の中に、こんな、踏ん切りが付いてなかったと思うんですねえ。私共は、どういう、生活の上に難儀なことがあっても、弟がおったら、もっと何とか他に、道が付いただろうとこう思うんです。ほんとに、一人の弟が、亡くなったと。ということが、私の運命というか、ほんとのことに進ませて頂くことのための、きっかけになったことだけは間違いないですね。ですから、ほんにそうたいね、あんたは、大作おじちゃんが、生まれた日と、同じだった、7月13日、しかも椛目では、13日といやあ、神様のご悲願が達成することのための日のように言われているんだから。確かにそんな、あの、いつもそういうような思い方なんです。「ね」。自分の、成すこと、言うておること、思うておることがです。立派でなからなければ、神様のご悲願の邪魔になる。神様の願いの、ご成就の基に、お邪魔になるようであっては、ならないといったような、思い方が、言うこと、行うことにもです。例えば、そんならこげん、遅うからじゃけれども、一時揉んでもらおうかねと、私も言えれる。片一方も、それを、眠いだんじゃない、それをほんとに、御用として、例えば、お父さんの願いは、そのまま神様の願いとして、聞けれるような、私はおかげを頂いていくことじゃないだろうかと思いますね。お互いがです、例えば人に、「あのくさい」と言うてから、人に話しかけることでもです。その、あのくさいの、その言おうとする、内容がです。立派でないならば、またあの人が、ああ、こう、呼び掛けられる。もうほんなこつ、どげなこつ言い出さっしゃるじゃろうかと言うてですね。また、この人の言わっしゃるこつは、もう、ろくなこつは言わっしゃらんけんでと、思うてですたい。「ね」。内容が、貧しかったり、それを自分の我情のため、我欲のための、「あのくさい」であったり、「あのね」であったりではです、私は、このう、自他共に、本当に、おかげを頂いていくということには、なってこないとこう思うですね。内容を、ほんとに、自分の願いのためではない、神様の、大きく言うなら願いのためにです、というような、内容がいつも、心に伝わっていくということが、信心が、育っていくということじゃないでしょうかね。
どうぞ、おかげを頂かれてください。